53 ぶんさんのはなし

53 ぶんさんのはなし

 湖底に沈んだ「内堀」部落に、ぶんさんという人がいました。年の頃は三十歳ぐらい、おかみさんと二、三人の子供がいて、貧しいながら平和に暮していました。

 昔は時折雹(ひょう)が降って農作物に大きな被害を受けましたので、雹災除(ひょうさいよ)けを願って毎年三月ごろ、群馬県の榛名神社へお詣りに行くのが恒例になっていました。例年三、四人の代参が講中の積立金の中から、交通費と若干の遊山費用をもらって出掛けたものでした。松井田までは汽車で行き、ここから歩いて妙義山へ向います。お札を頂いたのち妙義山に一泊し、翌朝早く出発して榛名山に到着するのが夕方、榛名神社に参拝してお札を頂き、伊香保温泉に泊り翌日帰途につくというのが、一般的なコースでした。

 明治の終りごろの事です。代参のくじに当ったぶんさんは、路銀を節約して生活費にあてようと思いついたのでした。ぶんさんは一人で、汽車にも乗らず榛名までの三十里(一二○キロメートル)もの遠い道程(みちのり)を歩いて行くことにしました。何日が経って、漸く妙義山から榛名山へ行く途中の風切峠(かざきりとうげ)にさしかかりました。峠の茶屋で一服し、熱いお茶で体を暖め再び榛名山目ざして出発しようとしました。やがて小雪がちらつきはじめましたので、茶屋のおばさんが心配して明朝にするようにとすすめました。

「なあに、これくらいの事で」

 一刻者のぶんさんは、おばさんの止めるのもきかずに茶屋を出て行きました。ますます降り続く雪に、案じていたおばさんは折よく茶屋に入ってきた四、五人の客に事情を話し、見てきてほしいと頼みました。あとを追った人達の目に、暮色立ちこめた雪の中にうずくまっている人影が見えました。精も魂も尽き果てて、疲労の余り一歩も動けなくなったぶんさんでした。意識を失いかけたぶんさんを担いで茶屋につれ戻り、いろりの火をかき立てて体を暖めてやりました。幸い命はとりとめましたが、足の指は凍傷にかかり、結局、後日足指切断という最悪の結果となったのでした。榛名山を目前にしながら代参を果せず、国からの迎えの人達につきそわれて車に乗せられ、無念の帰還となりました。

 その後、わらぐつを作ってもらって杖をたよりに歩いていましたが、そのうち壁土をこねる仕事をするようになりました。指のない足で結構うまくこねていたそうです。やがて目も悪くなり、酒を飲んでの帰り、橋から足をふみはずして川に落ち、ピチャピチャと水音をさせながら、助けを求めるぶんさんをよく見かけたものでした。

 大正のころ、移転を前に四十代の若さで、一人淋しくこの世を去ったということです。
(p116~117)